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山之内靖「羽入-折原論争への応答」
以下の文章は、山之内靖様から寄せられた応答です。

 

 

 

 

橋本 努 様                 2004年1月29日

 

「ウェーバー研究者たちに羽入−折原論争への応答を呼びかける手紙」および、「羽入―折原論争への参入と応答」を拝受しました。

 

 まず、「呼びかける手紙」に関してですが、私はこの論争にも、また、羽生氏の議論にも、まったく関心がありません。私は、すでに『ニーチェとヴェーバー』(1993年、未来社)、『マックス・ヴェーバー入門』(1997年、岩波新書)、『日本の社会科学とヴェーバー体験』(1999年、筑摩書房)で私のなすべき作業はなし終えた、と自覚しています。私は既存のヴェーバー学のあり方に違和感を抱き、その違和感に長らく苦しんできましたが、それとの取り組みを通して自分なりの解答を構築してきました。その主題は、ヴェーバーを西洋近代に始まる文明の擁護者や賛美者としてではなく、およそ、近代文明への根底的な批判者あるいはニーチェの問いを深刻に自覚した問題提起者として受け止める、というものでした。研究者の倫理的誠実さとは、自分がそこに生きる時代のコンテクストをどう受け止めるかということ、この点に関わっていると私は思っています。私はヴェーバーの学問的な作業を完璧な体系として崇拝するような観点とは縁がありません。むしろ、知的専門家集団である一部のサークルが――戦後の社会科学において有力な集団でしたが――ヴェーバーを理想像へと祭り上げ、神格化してきた状況に、異議申し立てをしてきたつもりです。私が「自分がそこに生きる時代のコンテクスト」と言う場合、それは大学の中の研究者集団によるパラダイム(トーマス・クーン)なのではなく、むしろ、生活者としての日常性にかかわる社会的相互関係の場を念頭においています。

 貴兄がもし、羽入―折原論争なるものに応答し、あるいは参加することが、ヴェーバー社会学について何らかのまとまった議論をした研究者の「倫理的義務」だと主張されるのなら、あるいはそれにたいして「応答責任」があると主張されるのなら、それは倫理性ないし知的誠実性について、狭い理解に立っているのではないか、と思います。確か、先の『未来』での貴兄の論稿では、羽入氏の問題提起をヴェーバー研究の先行者に対する挑戦と呼んでおられたと思いますが、私は、ヴェーバーの諸著作をいかに読むかは、研究者的課題につきるものだと考えてはおりません。むしろ、現代社会の歴史的コンテクストのなかで生きる生活者にとっての、思考と討議の材料の一つ、その最良のものの一つ、と考えております。「先生はこれまでウェーバーを研究してきて、一生を棒に振ってしまったのではないですか。ウェーバーなんか読まないほうがいいですよ」と若い世代が思うのではないか、と貴兄は危惧していますが、そんな反応を気にするつもりは毛頭ありません。私は、いまでも、私の『マックス・ヴェーバー入門』を初めとする私の諸著作に即して講義をすすめ、演習で議論をしていて、若い世代から、活発な応答を受けています。また、このごろは増えてきた大学院での中年の社会人たちとも、大変に濃密な議論を交わしております。

 私にとって、いまヴェーバーは、これまでのアカデミックな議論の枠を突破する新たな領域との関連で意味ある存在となっています。例えば、かつて『立法者と解釈者』(1987年。邦訳、1995年、昭和堂)のなかでヴェーバーを論難していたツイグムント・バウマンは、後の、「労働の倫理から消費の美学へ」(1998年。邦訳、山之内編著『総力戦体制からグローバリゼーションへ』2003年、平凡社、所収)では、むしろ、ヴェーバーのテーゼを肯定的に援用する方向に向かっています。かつてのバウマンは、「ピューリタニズムがもたらした『禁欲的職業労働のエートス』に焦点を合わせ、ここから近代世界誕生の歴史物語を紡ぎだしたヴェーバーの方法は、宗教改革時代の実態を捉えたものではない。それは近代の合理性が行き詰まって『鉄の檻』と化した時代が自己救済のために後から捏造した神話なのである」と述べていたにもかかわらず(山之内編著、58ページ)。『立法者と解釈者』でのバウマンの発言は、どうやら、羽入氏の論点と重なるところがあり、その先駆の一つと言ってよいでしょう。しかし、その後のバウマンの論点には、ヴェーバーの論旨を受容した上での展開が見られるようになっています。

 確かに、産業社会から消費社会へと移行した、といわれる最近のグローバル化の状況においては、ヴェーバーの合理化論、脱魔術化論は、もはやそのままでは通用しないでしょう。それに代わって、むしろ、「再魔術化」が新たなテーマとして登場しています。(「再魔術化」については、ジョージ・リッツァーの最近の諸著作。荒川敏彦「脱魔術化と再魔術化」『社会思想史研究』26号、2002年。山之内靖「脱魔術化した世界の再魔術化――ヴェーバーからパーソンズへ、そして再びヴェーバーへ」『再魔術化する世界』2004年3月、お茶の水書房、等を参照)。しかし、リッツァーにしても、荒川氏にしても、また私の場合も、「再魔術化」の事象をヴェーバーの無意味化を指示するものとしてではなく、むしろ、ヴェーバーが展開していた近代批判の延長上に現れた問題性として捉えています。私には、羽入―折原論争なるものにかかわっている暇などないのです。ヴェーバーが現在の私たちの日常生活を特徴付ける新たなコンテクストの分析に発展的に援用できるなら、そうした肯定的意味においてあらたな理論的領域を開発すること、そのことこそが、私にとっての生きがいなのです。

 もはや「参入と応答」について言及するエネルギーは残されていません。しかし、少しだけ触れておきましょう。こちらについて、とりわけ最後の<「知的祭り上げ」と「詐欺師の誘惑」>については、貴兄の面目躍如としていて、面白く拝読しました。しかし、私は、「知識人と大衆の拮抗関係」という図式について、その有効性を認めはしますが、自分の取る生活者としての地点からは、その両者に距離をおきたいと考えています。昨年、NHKから「地球市場・富の攻防」という大変に魅力的な映像のシリーズが放映されました。それを見ていて思ったのですが、その魅力は、さらにはるかに深刻な事態に気づかせるものでした。私の念頭に浮かんだ状況の図柄、それは、貴兄が述べる大学教授の職業的地位の数とその限界、といったレヴェルではなく、従って、知識人と大衆というオルテガやクリストファー・ラッシュの系譜に連なる問題性ではなく、むしろ、大学はもはや知の発信地として有意味な場所ではあり得なくなったのではないか、と感じさせるものでした。どうやら、こちらのほうが、貴兄のいう大学教授のポストの限界とそれに対するルサンチマンなどよりはるかに深刻なのではないか、と感じます。現代社会がそこへと進みいっている新たなコンテクストについて、大学内部の知識人は甚だしく鈍感なのです。私自身、私の講義よりもこれらNHKの映像のほうが、学生たちにとって、日常生活のコンテクストを身近に感じさせるという点ではるかに有効だと思わざるを得ませんでした。そして実際、あの映像のなかから、ナイキを扱った「巨大企業対NGO」、中国のバスケットボール選手のヨウメイを扱った「最強商品スーパースター」、コト・デ・ガザを扱った「要塞町の人々」、南アフリカの看護士の引き抜きを扱った「人材供給大陸」等を講義や演習で放映し、それに対する感想文を書かせるという実験を試みました。その効果は、本当に、びっくりするほどのものでした。学生たちは、自分が何気なく購入しているナイキやリーボックの製品が、どのようなコンテクストの中で生産され、販売され、消費されているのかについて、そのグローバルな関連を生々しい現実感覚を通して知覚したのです。

 大学教授のポストが限られている、ということを過剰に受け取る必要はないでしょう。大学教授は、そもそも、生活者としての現実に鈍感なまま、その特権的な地位に守られて自己を課題に評価する時代遅れの哀れな存在であることが多いのです。今の時代の若者たちは、大学教授の偽の権威主義を本音のところでは見破っています。試験をして学生をランク付け、社会の官僚制的制度に忠実な人格として送り出すそのシステムが、いまではいたるところでほころびを見せています。大学を卒業しても職がなく、あらためて専門職業学校に入りなおす学生の数は、年々、増大しています。そして実際、いくつかの大学は、最も肝心の入学試験さえ河合塾に依存するという事態にまでいたりついています。要するに、現代の先進社会の諸大学は、社会の新身分制秩序の予備校そのものへと、あるいは、企業の利潤を生み出す新技術開発研究所へと、成り下がっているのです。メディアの領域では、中国のヨウメイ選手がそうであるように、大学教授などには及びもつかない巨大な影響力を備えたタレントが生産されています。

 そうした時代状況をどのように生活者として認識するのか。また、ヴァーチャル化(仮想現実化)した生活秩序の背後にある存在論的問題性をどのように自覚化し、それを表現する社会運動へと結晶化してゆくのか。そうしたことが、いま、私の頭と身体を捉えています。その巨大な課題からすれば、所詮はヴェーバー研究者の間で強迫観念的に語られるに過ぎない倫理性だの知的誠実性など、時間を割くにはあまりに小さい問題なのです。

 ヴェーバーが羽入論文などの雑音によって読まれなくなるとするならば、読まれなくて良いでしょう。ヴェーバーだけにしがみついて、その学問的体系性が破壊されたら自分の存在に意味がなくなる、などと考えるのは馬鹿げています。そうした思い込みに従って、ヴェーバーへのあらゆる非難に首を突っ込み、そうすることによって自分を研究者的倫理性の模範だと主張するような強迫観念から私は自由でありたいと願っています。時代のコンテクストにたいして、それに正面から取り組もうとする人々がいる限り、そこに広がる討論のネットワークから、新たな知的エネルギーが沸いて来るでしょう。かつてヴェーバーは、20世紀の初頭という歴史的・時代的コンテクストのなかで、そうした新たな知的ネットワークの一つの結節点となったのです。その生き方こそが学ばれるべきであり、特殊に体系化ないし理念型化されたヴェーバー学など、どうでも良いのです。マルクスについても同じことが言えます。マルクスやヴェーバーから与えられた知の一つの可能性を、新たなコンテクストのなかで絶えず新たなものへと更新すること、その創造性こそが問われているのです。そうした創造性を欠いた専門研究者たちが、文献学的に地道に論じるべき事柄を詐欺行為などと大げさに粉飾したり、あるいは、ヴェーバーをそうした売名行為から守ることが学者の倫理性や知的誠実さを示す証なのだ、という強迫観念に取りつかれたりするのです。

 

                      山之内 靖